映画「ファーザー」を観て

映画が好きだ。様々な人生を国や時代や文化を越えて少しだけ時間を共にすることが出来る。
私一人では到底不可能な経験、あらゆる人生をほんの少しだけご一緒することが出来る。
映画好きは母の影響だろう。アルツハイマー型認知症で亡くなった祖父(母の父)も映画を観るのが好きだった。

最近、映画『ファーザー』を観た。主人公を通して認知症という病を追体験する作品だ。
かつては自尊心が強く、頑固だったであろう父親が認知症を患い、狼狽え、不安の中に迷い崩れて行く様を近くで見守り、傷つき翻弄される娘の心の葛藤が痛い程伝わってくるが、本作の主題はそこではない。
記憶を失い行く恐怖とはいかなるものかをこの上なく丁寧に描き出す。過去と現在が入り乱れる記憶の大渋滞の中で、不安と混乱に支配され、自分を形作る大切な思い出は無残にも砂のように掌から溢れ落ちていく。自分とは誰なのかさえわからなくなっていく。凄まじい恐怖だ。大きく育った大木がいつしか記憶と言う名の葉を1枚1枚失ってき、幹だけが残る。その幹も衰え、いつしか土へと還って行くのだろう。挿入歌の「耳に残るは君の歌声」 ”Les pêcheurs de perles”Cyrille Dubois が残酷なまでに美しい。

生前祖父も夜の空を見ては「虹が出た。」、「知らない女がベッドに寝ている。」と幻覚をよく口にしていた。きっと祖父も主人公同様、日常と非日常の狭間で孤独に佇んでいたに違いない。その時は気が付くことさえもできなかったけれど。そして、主人公が時計に執着するように、やはり物に依存し執着していた。溺れる人が流木に縋り命を保つように記憶が失われていく中で、形が有るものに追い縋るしかないのだ。

人は何も持たずに生まれてくる。成長に伴い、様々な経験を経て、沢山の思い出を作る。記憶の蓄積の中で自分という人間を徐々に構成していく。死ぬ時もまた「これが自分なのだ」という不要な記憶の欠片を剥がして、生まれたままのまっさらな状態で土へと還って行くのかもしれない。「これが自分」というアイデンティティだって幻想に過ぎないのかもしれないのだから。

映画の鑑賞後、アンソニー・ホプキンスのインタビュー動画を少しだけ拝見した。
「台本に全て書いてある。強迫観念に囚われているかのように台詞を繰り返し読み込みただ暗唱するだけ。役柄について分析することは一切しない。」と仰っていた。能も一緒だと感じた。無駄なことを考えるよりも繰り返し、声や体を使って稽古を重ねて言葉が自分の体に入り染み付いてくる。
とは言え、能は余白を楽しむ演劇だからあれこれ想像することも楽しみなのだけれど。

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